嫌日家から親日家へ アーレイ・バーク提督

アーレイ・バーク.彼は,第二次世界大戦(1941-1945)の時の米海軍大将です.

そして,彼は,日本人を”Jap”,”Yellow Monky”などと侮蔑的に呼んでいましたが,同じ戦域で対峙していた帝国海軍中将,草鹿任一と知り合います.すると,親交を深め,以前とはうって変わって親日家となりました.

太平洋戦争開戦で、粘り強い努力によって南太平洋戦域へ転出したバークは、第12駆逐隊司令、第23駆逐隊司令、第12水雷戦隊司令官となり、戦時昇進で大佐となった。1943年10月には、「リトル・ビーバーズ」として知られる第23水雷戦隊の司令官となり、同年11月にブーゲンビル島上陸作戦の支援にあたった。同戦隊は、それから4ヶ月の間にセント・ジョージ岬沖海戦など22回の戦闘に参加して、日本海軍の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻などを撃沈破、航空機約30機を撃墜した。バークは麾下の駆逐艦を当時艦隊行動できる限界とされていた30ノットを超える31ノットで走らせ、「31ノットで航行中」と打電したことから、「31ノット・バーク」と呼ばれるようになった。1944年3月に太平洋艦隊の高速空母機動部隊、第58任務部隊司令官マーク・ミッチャー中将の参謀長となり、戦時昇進で代将となって、1945年6月までその職にあった。沖縄戦でミッチャー司令官が旗艦としていた空母バンカー・ヒルとエンタープライズが相次いで特攻機の攻撃を受けた際には、参謀長のバークも乗り組んでいた。 (wikipediaより引用)

親日家となった彼は,日本の占領からの開放や、海上自衛隊創設に協力します。この功により,1961年に勲一等旭日大綬章を授与されます。 94歳で死去された時,他にも生前の様々な功績により、米国を含め各国から数多の勲章を授与されていました.しかし,彼の遺志により、葬儀で遺体の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章ただ一つだけであったそうです。

 

USA - Stamp, 2010 Distinguished Sailors, Arleigh A. Burke

切手にもなっています

 

他にも,感動的なエピソードがありました.
(”ネイビーブルーに恋をして”さんの記事中にある,阿川尚之氏の著書からの引用です.)

アーレイ・バーク海軍大将と日本とのかかわりについて書かれた項があります。
バーク大将は、戦中、ソロモン海域で日本艦隊を相手に熾烈な戦闘を繰り広げた駆逐隊司令でした。
戦後、朝鮮戦争が勃発したとき、その戦況をワシントンに報告する参謀副長として日本にやってきました。
かつての敵国において、日本人と触れあううち、すっかり日本人が好きになった、という大将ですが、
この草鹿任一旧海軍中将とのある日の出会いが、かれの日本人好きを決定的にしたという話です。

ある日、バーク大将は、同期の部下から戦後の草鹿中将の困窮についての噂を聞きます。
かつての海軍中将が、いまや公職追放にあい、鉄道工事の現場でつるはしを奮い生計を立てている。
夫人は街で花売りをして回っているらしい・・・・。

バーク大将がソロモンで駆逐艦隊司令であったまさにそのとき、
ラバウル方面海軍最高司令官は、ほかでもないこの草鹿中将でした。
その艦隊にバークは何隻かの艦を沈められ、バークもまたその艦隊を屠った、
つまりカタキ同士です。

「飢えさせておけ」

その話を聞いてすぐはこんな言葉しか出てこなかったバークでしたが、すぐに思い直します。
いくら敗戦したからといってあれだけ勇猛に戦ったかつての提督が、
同胞にそこまでの仕打ちを受けなくてはならないものか。
惻隠の情にかられた大将は、匿名で草鹿家に食料を送りました。

数日後バークの執務室のドアが開いて、小柄な日本人がわめきながら飛び込んできた。草鹿である。
(中略)
草鹿は
「侮辱するのはよせ、誰の世話にもならない。
特にアメリカ人からは何も貰いたくない。
アメリカ人とは関係を持たない」
それだけ言うとプンプン怒りながら出ていった。
バークは提督に好感を持った。
自分が彼の立場だったら、全く同じことをするだろうと思った。

バークは草鹿と板野常善、富岡定俊の三人の旧海軍提督を、あらためて帝国ホテルの食事に招待しました。
擦り切れた礼服で固くなって現れた三人に酒を勧め、話すうちに三人とも英語ができ、
わけてもあの日、日本語でわめいて出ていった草鹿中将が
実は一番―英語が達者だったことがわかりました。

草鹿中将は大佐時代ロンドンの駐在武官も務めているのです。

すっかり和んだ食事の最後に、バーク大将は、あらためて乾杯を提案しました。
草鹿中将は立ちあがり、杯をあげてこう音頭を取りました。

「今日招いて下さった御親切なバークさんに乾杯をしたい。
もうひとつ、自分が(戦中)十分な任務を果たさなかったことにも乾杯しましょう。
もし任務を忠実に果たしていたら、この宴の主人を殺していたはずだ。
そうしたら今日の美味しいステーキは食べられませんでした。
では乾杯!」

負けじとバークもこう返します。

「私も自分が任務を果たさなかったことに乾杯したいと思います。
任務をきちんと果たしていれば、草鹿提督の命はちょうだいしていたはずで、
今日の素晴らしいステーキディナーを誰も食べることができなかったからです。
乾杯!」

アーレイ・バーク氏は、その後野村吉三郎氏に協力し、海上自衛隊の創設に大きな力を注ぎました。
晩年の彼は「アメリカ海軍より自衛隊のほうがよっぽど自分を大事にしてくれる」と笑って言ったそうですが、日本を愛し、日本人を愛すようになった大きな一つのきっかけが、草鹿中将の乾杯であったことは確かでしょう。

バーク氏が1996年に永眠したとき、その棺に横たわる大将の身体には、
日本政府から送られた勲一等旭日大褒章がつけられていました。
棺の蓋が覆われたとき、大将がその生涯で貰った数多くの勲章は全て棺の縁にならべられていましたが、その一つだけが無くなっていたのです。

アーレイ・バーク海軍大将は、たった一つ、日本から送られた勲章を胸に天国に旅立ったのでした。

“ネイビーブルーに恋をして”さんのブログは,かつての海軍や航空機などの逸話などを掲載されています.
堅い話も多いのに,軽快に読み進められるので,オススメですよ.

http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/m/201304

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/28453334.html

 

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